【介護】認知症との向き合い方
ご家族が認知症と言われたとき、どのように向き合えばいいのでしょうか。札幌市にお住いのNさんはお父様が認知症だと診断され、 お母様と妹さんと3人での介護が始まりました。初めてのことだらけで不安な中、どうやって乗り越えられたのか。 気のトレーニングという健康法を通して体験された会員さんのお話です。
アルツハイマー型認知症になった父の介護
札幌市.C・Nさま
私は父に対して随分と長い間、反抗期をしていました。
もう、どうやって普通に話したらいいのかわからなくなっていたくらいです。
もちろん、その状況をいいとは思っていませんでしたが、そんな気持ちに蓋をして、悩みもしなかった気がします。
洗心術を始めて受講した日
それが、初めて受講した洗心術で、「私は、父と話ができていません。」と言っている自分に、自分でもビックリしました。
学長から、「お父さんの好きなものでも買って帰りなさい。」と言っていただいたのに、 なんと私は「父が好きなものは、お酒と知っています。でも、お酒を飲んだ父は、好きではありません。」 などと酷いことを言ってしまいました。「少しでいいんだよ。」学長はそんな風に言ってくださったように記憶しています。
その夜、家に着いたのは、随分遅い時間だったので、当然、家族全員が寝ていると思って、鍵をカチャッと開けました。
すると、ちょうどトイレのドアノブを手にしていたパジャマ姿の父と目が合いました。
私は、今だ!と思って、「お父さん、今日はね、講座を受講してきたよ。お父さんにお土産がある。」と言って、 お酒を手渡ししました。
父は、寝起きでぼんやりしていたのか、私に話しかけられたのが久しぶりすぎて、 なんと言ったらいいのかわからなかったのか、「あっ、わざわざどうも…」と受け取ってくれました。
その晩は、それだけでしたが、翌朝からは、昔のように、なんてことなく普通に話していました。
今までの私は、なんだったのだろうと思うほど自然に…。
洗心術の効果に本当に驚き、良かったな~と思った出来事でした
家族にとっての第一歩
父が80歳半ばを過ぎたころのことです。
母から「お父さん、鼻にツンとくる匂いがする時がある……」と言われて、びっくりしました。
尿かな……そんな感じがしました。父も身に覚えがあるのか、必死で隠そうする感じがしました。
それは、そうですよね、大人として、それは恥ずかしいことですから。
それと、物忘れをするようになりました。
そして家族が「お父さん、何か変だ」「いいや、前からそういうところあったようにも思う」「物忘れ外来とかに行った方がいいのかな」 「年を取るとは、こういうことなのか」などと言って、一喜一憂する日が増えてきて、とくに母に疲れが見えてきました。
そこで、物忘れ外来の、ある医療機関に受診すると、医師から、アルツハイマー型認知症であると診断されました。
家に帰って、そのことを母親、妹に伝えると、家族皆、受け入れることができました。
父と向き合う日々
こうして父は公的支援を受けることになりました。
ケアマネージャーさんのお世話になり、デイケアに行きましょうと促されると、意外にも父は「行くよ」と言い、送り迎えしていただくことになりました。
お風呂にも入れていただき、助かりました。やがてグループホームの入所を進められました。
少しの距離があることで、お互いに優しい気持ちでいることができるのは、大切なことだという説明でした。
どこも一杯で待機期間がかかるなか、家の近くに、増設するグループホームがあることを、ケアマネさんが、聞きつけて、すっと申し込みしてくださったため、 新しくて、明るく、きれいなグループホームで、しかもスタッフの皆さんも若者が多く、活気あるところに入所することができました。
本当に幸運なことでした。お陰で母、妹、私で会話する時間と余裕ができました。(母は、寝る時間も確保できました。)
父は、グループホームに入ってからも、転倒して骨折したり、間質性肺炎で酸素が必要になったりして、その後は、病院を転々とすることになるのですが、自分が小さかった時のこと、 おじいちゃんのこと、おばあちゃんのこと、など色々話をしてくれました。
それは、思春期を済んでもなかなか会話することをしてこなかった私達親子の時間を取り戻すかのような時間でした。
幸い、コロナのない時でしたので、そういう時間を持てたことは本当に良かったと思います。
父は、時間軸が、今でないところにいることもありました。
一緒にテレビを見ていて、「ラーメン食べて500円か~~」と言うので、心の中で「おっ、お父さん、今ラーメン1杯500円の時代に行ったか」と思ったことも、
私が「この前おじいちゃんの家見えてさ~、もっと大きいと思っていたのだけど、自分が小さかっただけなんだね。あれ、こんな感じだっけと思ったよ。小学校もあんな近くだったんだね。」と言ったら、 父に「お前、その小学校に行ってただろう! いや違った、それは、信子(妹)だった」と言われ、「おーお父さん、今回は、早く戻ったね」と思ったこともありました。
ときには、私の方から相談もしました。
私 「私はもう、仕事が勤まっていないの。やめた方がいいのではないかと思う……」
父 「で、お前はくびだと言われたか?」
私 「いや、そうは言われていないけど……」
父 「置いてもらえ……」
はっとしました。何を偉そうに辞めるとか辞めないとか……。
そうか、「置いてもらおう」と決意すると、スッキリしました。
お陰様で、その後60歳定年時まで置いてもらい、その後もアルバイト的な作業をさせていただいています。
一番ビックリしていたのは、母で「あんた、よく最後までいられたね」と驚いていました。
腕時計がなくなった?!
転倒し、グループホームから病院に入院し、回復してきた頃、父が「グループホームの部屋に置いてある腕時計がなくなっていないか、見に行ってくれ。 隣のおばあさん、よく部屋を間違えてドア開けていたんだ、あのおばあさん、もしかして……」と言うのです。
そのたびに、父が、「違うよ。ここは、俺の部屋だよ」と言っていたことも。
しかし私は、父の目を見て「物がなくなるのが、なんぼのものなの。そんなの何てことないわ! それより、そういうことを言うお父さんを見るほうが、よっぽどいやだ!!」と思わず、言ってしまいました。
その後、父から〇〇がなくなったと、などという話は一度も聞いていません。
お父さん、びっくりしたのかなあ。
父の勇気
ある日、療養型の病院に転院して少し経った頃、父は、何か言おうとするのですが、辛い表情をしたまま言えません。
なんとか言おうとするのですが、「ん~」と、うなるだけで、言葉にならないということがありました。
どうしたのかなあと思っていると、同室の人が「お父さん、頑張れ!」と応援する声が届きました。
そして絞り出した言葉が、「俺は……俺は……酒を辞めることが出来なかった…悪かった…」というものでした。
確かにそうなのです。父は、酒に飲まれるというか、決していいお酒の飲み方ではなかったのです。
でも、無理してまで言おうとしなくてもいいのでは。
頑張って言った父に私は、「そうであっても、お父さんのことは、嫌いにはならないよ」と言うと、父は、ホッとした顔になりました。
こんなふうに、入院中、いろいろな話をしました。病気ではあったにせよ、父と私は、会話して過ごしました。
一番驚いていたのは母です。「あんたが、お父さんにそうやって向き合うとは思わなかった……」と、それも無理はありません。
父と私は長い間、ろくに話もしないでいたのですから…。
父との別れ
最後は、早朝に電話があり、タクシーで病院に。
部屋に入ると、ベッドを挟んで右に母、左に妹がいました。
妹が「お父さん、おねえちゃんだよ、おねえちゃん来たよ!」と叫んだので、私は、妹側に行って手をつないで、「お父さん、お父さん来たよ」と言いました。
それから何を言ったのか覚えていませんが、だんだん冷たくなっていくのがわかりました。
息を引き取った後のことです。
妹 「一回、心拍数が0になったんだよ。ところが、おねえちゃん来るよ、近くまで来てるよって言ったら、息吹き返したんだよ。良かった~~」
母 「お父さん、右目から涙がツーっと流れたよ」
妹 「涙見せたのは、お母さんにだけだね。私達には、見せなかったよ」
最後の最後まで、お父さんには、意思があったように思います。
修行してきて役に立ったこと
おかげ様で、この歳になっても、仕事をさせていただいています。
もう限界だ! これ以上は無理だ! 何度、そう思ったことでしょう。
しかし、その都度、それを乗り越える、気力、体力が湧いてきました。それは、気のトレーニングのおかげです。
修行していなければ、どうなっていたか。。
いつギブアップしてもおかしくなく、心も、体もくたびれていたと思います。
ですから、はたして、これまで生きていたのかなあ、と思います。
とにかく、生きていくのにいっぱいいっぱいで、気のトレーニングで、やっと生き延びられたのです。
自分が一番変われたこと
自分を嫌いでなくなったこと。
心がけてきたこと
人生をあきらめたくなかったので、どんなに忙しくても、どんなにつらい状況であっても、元気に前向きに生活するように心がけました。
親孝行について
小さい頃、テレビで聞いた「親不孝」という言葉に引っかかって、母に「親不孝って何?」と聞いたら「親に心配かけること。」と言われました。
父に「親不孝って何?」と聞いたときは「親より先に死ぬこと」と言われました。父より先に死ぬことはなかったので、よかったです。
元気で前向きに生活していると、母はニコニコしているので、私はこれからますます元気に、前向きに生きていこうと思っています。